もりおかし だいじじちく なたやちょう
岩手県盛岡市大慈寺地区鉈屋町界隈の紹介
まちの成り立ちと歴史まちづくり
この地区の魅力は、町家が残る街道筋、寺ノ下寺院群の寺筋、舟運時代の御蔵(おくら)、舟橋跡(ふなばしあと)の川筋と多様な暮しが息づいていることです。
江戸から明治時代にかけて、北上川舟運の起点、奥州街道、宮古等街道の城下玄関口として重要な場所でした。
川港・新山河岸から川原町には問屋、運輸等に関する店が並び、惣門周辺には、糸冶(いとじ)(移築:国重文)、木津屋(きづや)(県指定)等の大店(おおだな)が並びました。一方、鉈屋町は、街道筋の農村を背景に庶民的な町として発展してきました。
また、湧水に恵まれ、青龍水(せいりゅうすい)、大慈清水(だいじしみず)、酒蔵はあさ開(あさびらき)、旧岩手川(いわてがわ)の建造物が残ってきました。
明治23年に、東北線盛岡駅が開業し、鉄道の時代を迎えると徐々に町家は住居化して現在に至ります。
近年、28㍍に拡幅する都市計画道路が事業決定され、にわかに注目が集まりました。
その中、平成15年の暮に、住民と専門家が集まり、盛岡まち並み塾が設立され、町家の暮しと町家等の歴史的建造物を保存活用する活動がはじまります。現在、都市計画道路を廃止して、地区全体の歴史的資源を活用したまちづくりに発展しています。
盛岡町家とまち並み
盛岡町家は、「こみせ」が変化し内土間化した柱持ちの下屋をもち、
道路と平行に屋根の棟を持つ「平入り(ひらいり)」のまち並みをつくります。
この、「平入り」は北東北では旧南部領に分布しています。
町人の職住一体の居住形式で、表から裏につながる通り土間である
「ろーじ」、「母屋」、「坪庭」、「蔵」からなるつくりを基本とし、
「常居(じょい)」の吹抜けが特徴です。
参考:ページ 盛岡町家について
御蔵-下町史料館
おくら したまちしりょうかん
盛岡藩の旧米備蓄蔵で、北上川の深山舟橋たもとに位置することから、浸水と湿気を防ぐ通気を考えた工夫がなされた造りになっています。約100坪の市内最大級の平屋の土蔵には、江戸時代からの町家暮らし・庶民の暮らし生活用具、新山舟橋(しんざんふなばし)ゆかりの史料、「川原町・鉈屋町の丁印」等約2,000点を展示しています。 4月から10月の土日曜日開館します。
もりおか町家物語館
江戸時代「近藤(きんとう)」の酒蔵から、大正時代「浜藤(はまとう)」の酒蔵、
後の旧「岩手川」酒蔵工場として利用された市内屈指の大型の町家です。
平成26年に新しく町家見学施設として活用されオープンしました。
ホール利用が可能です。
参考:もりおか町家物語館ホームページ
共同井戸 大切に使われ今に残る
大慈清水
だいじ しみず
江戸時代は湧水池で、明治初期有志により大慈寺境内の湧水から木管で引水し
原形が造られ、鉈屋町、神子田、下町界隈の生活用水として使われてきました。大正9年「鉈屋町用水組合」が設立され、昭和2年4月「大慈清水用水組合」に改称し、本格的な工事で現在のような姿になります。
昭和52年に井戸に代わっています。
青龍水
せいりゅうすい
江戸時代は自噴する湧き水でした。明治8年には、祇蛇寺(ぎだじ)の湧水池から
木管で引水し、この時に祇蛇寺に伝わる青龍伝説から青龍水と名付けられたようです。昭和2年に整備され7年に現在の姿となっています。
昭和45年に井戸に代わっています。
◆大慈清水、青龍水は地元の皆さんの生活用水です。地域住民による用水組合によって、
定期清掃・修繕維持管理されています。利用の際には,ルールを守るようにお願いします。
寺院群 先人が眠る墓所
大慈寺
だいじじ
江戸初期に伝来した黄檗宗(おうばくしゅう)の寺であり、第19代内閣総理大臣・原敬の菩提寺です。寺の西側には原敬が妻・浅と並んで眠る墓所があります。
明治17年(1884)河南大火で焼失しましたが、原敬の援助により明治38年(1905)に山門、大正6年(1917)に本堂、7年(1918)に庫裏(くり:住職の居間)が再建されました。
山門の天井に2匹の龍が描かれ、明治時代の日本画家・川口月村の弟子吉田雪村の印があります。
円光寺
えんこうじ
寛文年間(1661~1672)に創建されました。盛岡市出身の宰相・米内光政の菩提寺です。本堂両脇に市指定天然記念物の「夫婦(めおと)カツラ」、「お蓮伝説」を伝える首塚があります。
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