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残したい盛岡のお盆の風景

黒川さんさの門付け

岩手県盛岡市では、

8月お盆の行事が執り行われます。

​鉈屋町界隈の家々では、先祖の霊を迎え、送るかがり火をたく風習が残り、伝統参差「黒川参差踊連中」が地域を巡り供養する家周りを行います。

 これからも残したいお盆の風景の中には、先祖を思い家族の大切さを確かめ合う静かな時間が流れます。

盛岡のお盆行事

■迎え火・送り火

盛岡市内では昔から絶えることなく先祖のお盆行事として、

各家々で、迎え火、送り火が行なわれてきました。

 

戦前までは、町内で申し合わせをして、道路の中央で、一斉に束薪で焚かれてきました。

しかし、戦後、人口流出、世代交代、車社会が進む中で、急速に減少していきます。

また、道路上ではできなくなり、各家々の軒下で焚くことになります。

このような中、鉈屋町界隈では、夕方暗くなると14、15日の迎え火、16日の送り火が、

町内で一斉に焚かれる風景を見ることができます。

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迎え火・送り火

​■黒川さんさ踊りの門付け

黒川さんさ踊りの門付

14日夜には、焚き火の中で、黒川さんさ踊りの門付けが行われます。

門付けは、鉈屋町のような街道筋の入口に発達した町場では

町場と農村との交流の象徴として特に大切にされてきました。

 

戦後の農地解放、その後の流通の近代化、旧市街地の衰退の中、

農村との関わりが薄れ、道路の車優先化も相まって、

昭和40年代以降、ほぼ消滅したと言って良い状態です。

伝統さんさは、お盆に神社等の境内で踊っていいたものが、

地域の家を回って供養する家周り、さらに踊り組が、

盛岡城下の商家に門付けするようになります。

「魅せる芸」として、厳しい修行に堪えた踊り連中が伝承を担ったため

「連中参差(むらじさんさ)」とも呼ばれています。

 

この連中参差のひとつが黒川さんさ踊りです。

 

由来は、多くのさんさ踊りが三ツ石神社の悪鬼退散の祝いを

由来とするのと異なり、平安後期・前九年の役での、

関東武士の戦勝祈願の踊りから、家内安全、五穀豊穣の祈りをこめ

踊り継いできたと伝えられています。

 

高度な技術を要する古風色濃い踊りは伝統さんさの花形として

部落の誇りとして大切に伝承されてきました。

4人で組む「4つ踊り」など、ほかの踊り組にはない高度な組踊りを持ち、

腰を 低く保ちながら上体を捻り曲線で踊るダイナミックな至芸として

県内外に多くのファンを得ています。

 

踊り組は太夫、唄かけ、太鼓打ち、笛吹き、道化役一八、踊り手、世話役で構成し、踊りは輪踊りが基本で、33種あったと伝えられ、

提灯を持った太夫を先頭に「歩き太鼓」で入場、

輪ができ「庭ならし」から始まり、「引き庭」で踊り収めます。

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■舟っこ流し

舟っこ流し

16日の精霊送り行事です。

各町内会等で作られた造花や五色弊で飾られた舟を、

火をつけて北上川に流し送る伝統行事です。

その後、灯ろう流し、山梨県南部町由来の投げ松明、花火大会が行われます。


舟は各町内から子供たちによって町内周りをして、明治橋上流に集められ、

儀式のあと有志がひいて一艘ずつ川へ流され、火をつけます。

燃えながら流れる舟は明治橋で燃えつきます。


舟っこ流しは、 今からおよそ 280 年前の享保年間に、

盛岡藩四代藩主・南部行信の七女・麻久子姫が 川施餓鬼 (かわせがき) の

大法要を行たものが始まりとされています。

その百年後、1815 年に津志田遊郭の遊女たちが乗った舟が

氾濫した北上川で転覆し、 溺れ死んだ霊を慰めるため、

舟に位牌と供物を乗せて流すようになり、

以後盛んに行われるようになりました。

 

今では祖先の霊を送り、無病息災を祈る行事となっています。

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